正洞院 ─台東区下谷・曹洞宗の寺院墓地─
入谷駅から徒歩2分。日当たり良好な平坦墓地。
駐車場完備。永代供養墓、ペット供養墓も受付中。
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正洞院(しょうとういん)について
廣澤山正洞院は、今からおよそ400年前の慶長6年(1601)に開かれた曹洞宗のお寺です。開基は正洞院殿明室珠光大禅定尼(でんみょうしつじゅこうだいぜんじょうに)。開山は天州呑虎大和尚(てんしゅうどんこだいおしょう)です。
開基の正洞院殿(しょうとういんでん)は、永禄11年(1568)、源平合戦で知られる弓矢の名人、那須与一の子孫で那須資胤(すけたね)を父に蘆野資豊(あしのすけとよ)の娘を母に、現在の栃木県那須烏山市に生まれました。 当時は織田信長が天下統一に向けて基盤を築いていた時代で、関東でも豪族同士の争いが繰り返されていました。
正洞院殿の父、資胤が長年抗争を続けた相手に常陸太田城(茨城県常陸太田市)を本拠とする佐竹義重(よししげ)がいました。戦いは15年に及びましたが、ついには和睦の道を選びます。その際の条件の一つに、当時わずか5歳であった正洞院殿と義重の長男でようやく三歳であった義宣(よしのぶ)の婚約がありました。義宣の母は伊達氏15代晴宗(はるむね)の娘。独眼竜と謳われた政宗と義宣は母方の従兄同士にあたります。
和睦から13年後の天正13年(1585)、16歳になった義宣は正洞院殿を正室に迎えました。しかしその 結婚生活はわずか6年で終わってしまいます。
正洞院殿は、天正19年4月18日、常陸太田城で 24歳の短い生涯を終えるのです。葬儀は佐竹氏ゆかりの耕山寺で行われ、十六世住職天州呑虎大和尚が導師を勤めたと伝えられています。
義宣は妻亡き後、水戸へ進出して豊臣秀吉より54万石の領地を与えられますが、関ヶ原の役で豊臣方についたため、慶長7年に徳川家康の命により出羽国秋田へ国替えになります。その前年、新たな都市として開けつつあった江戸下谷に、義宣は亡き妻の菩提供養のため、その法号を寺名とする当山を建立。深く帰依していた耕山寺の天州呑虎大和尚を開山として招いたのです。
創建当時は本堂と庫裡に山門があるだけの小さなお寺でしたが、歴代住職と檀信徒の浄信によって伽藍は次第に拡充され、特に中興として仰がれる五世寿叟嶺祝(じゅそうれいしゅく)大和尚は梵鐘を造立して鐘楼を建立したと記録があります。
また8世長嶽鉄條(ちょうがくてつじょう)大和尚の代には、二十棟にもなる大伽藍が整えられたといいます。しかし、江戸の多くの寺院がそうであったように、火事や地震に見舞われて、特に明和9年の「行人坂の大火」では全伽藍が灰燼に帰しています。また安政の大地震では本堂庫裡が傾き、関東大震災、太平洋戦争ではいずれも諸堂を焼失しています。しかしそのたびに檀信徒の支えと信心によって復興し、現在の寺観が整えられたのは昭和35年(1960)のことでした。
正洞院はこれからも仏様のご加護のもと法灯をお守りし、檀信徒のみなさまとともに歩み続けて参ります。
特長
- 入谷駅から徒歩2分
- 駐車場完備
- 日当たり良好な墓地
- 境内に咲く桜が印象的
- ペット供養墓、永代供養墓も受付中
- 戦火を免れた山門などがあり歴史を感じる趣き
料金
永代使用料
- 50cm×40cm(0.20㎡):25万円(後継者無)、60万円(後継者有)
- 50cm×50cm(0.25㎡):35万円(後継者無)、60万円(後継者有)
- 60cm×60cm(0.36㎡):60万円
- 75cm×75cm(0.56㎡):70万円
- 90cm×90cm(0.81㎡):120万円~
年間護持会費
- 8,000円
永代供養墓
→入谷駅前墓苑ページにてご確認ください。※ページ中央あたり
ペット供養墓
- 1体:2万円~
正洞院 概要
名称 | 正洞院 |
宗派 | 曹洞宗 |
墓地形態 | 寺院墓地 |
経営主体 | 廣澤山 正洞院 |
所在地 | 東京都台東区下谷2-6-2 |
アクセス | ▼日比谷線「入谷駅」2番出口より徒歩2分 ▼JR線「鶯谷駅」南口より徒歩6分 ▼JR線「上野駅」入谷口より徒歩12分 |
■墓地見学について
※正洞院に朋友の係員は常駐していません。行事や法要の予定を確認の上で墓地のご案内をさせていただきますので、ご見学の際は事前に朋友までご連絡をお願いします。
※正洞院以外の墓地情報は「墓地一覧」よりご覧ください。